
アルベール・マルケという画家がいます。
19世紀から20世紀にかけて活動したフランスの画家で、グレーや薄い青を基調にした落ち着いた色と穏やかな筆づかいで、港の風景などを描きました。「水の画家」と呼ばれ、生涯各地を旅して、数多くの絵を残しています。
マルケの絵は、すぐ近くで見ると色も筆の跡も粗く見えます。ところが、少し離れて眺めると、奥行きのある風景が見えてきます。マルケが要素を最小限に絞って、見る側の感覚が入る余地を残しているからだと私は感じます。
私たちは、足りない情報を自分の記憶や想像で補いながら絵を見ています。そうして絵と人が一体となって、ひとつの風景ができあがるのでしょう。
マルケの絵で印象的なのは、街の人々が、ごく簡単な線で描かれているのに、今にも動き出しそうに見えることです。
素描も多く残していて、最小限の線だけで、動きの向きと勢いが伝わってきます。その線は、対象の輪郭をなぞったものではなく、氣の動きをそのまま紙の上に写し取ったもののように、私には見えます。
心身統一合氣道の技の稽古でも、動画を見て外側の「形」を精密になぞっても、同じ動きにはなりません。形の奥にある氣の動きが分かってはじめて、実際の動きになります。
初心者のうちは正しい形や動きを覚えることが大切ですが、上級者になるほど「形から離れる」ことが必要になるのです。
たとえば「立つ」という姿勢でも、氣の動きが分かって立つのと、分からずに立つのとでは、中身が違います。動きのない姿勢にも氣は動いていて、その氣の動きが立ち姿という形をつくっているのです。
日常で言えば、誰かをサポートするために立っているときと、暇つぶしにスマホを見て立っているときとでは、氣の動きが異なります。
私は内弟子時代、技の稽古で藤平光一先生から「氣を止めている」と注意されることが頻繁にありました。まったく理解できませんでしたが、その都度、疲れ果てて無心で動けるようになるまで繰り返すと、「それで良い」と言われていました。
私自身の心や身体に不要な力みがあることで、氣の動きが分からなくなっていました。「相手を投げてやろう」という作為は余計なものの最たる例です。そういったものを削ぎ落とすことで、氣の動きがよく分かるようになっていきました。
藤平光一先生は、心身統一合氣道の教本をつくるとき、どんな写真を撮るかを示すために、ご自身で絵コンテのようなものを描かれました。技を行う人物はごく簡単な線で描かれていて、マルケの素描のように力強い動きと勢いが感じられ、人物の表情まで伝わってきました。
撮影もその資料をもとに順調に進みました。残念なのは、その資料が撮影後に行方不明になってしまったことです。形あるものとしては残らなくても、そこに込められていた氣の動きは、今も私の中に残っています。

