
東京国立博物館(平成館)で開催されている弘法大師生誕1250年記念特別展「空海と真言の名宝」を鑑賞しました。実に多くの来場者で賑わっていました。
真言宗各派総大本山会に名を連ねる十八本山と関係寺院の貴重な名宝が一堂に会する大型企画で、会場には、数十年ぶりに開帳される秘仏や宮中儀礼にまつわる荘厳な仏具、さらには密教の作法を記録した映像などが並んでいました。
展示を巡りながら感じたのは、空海という人物が持っていた「導きと表現」の力です。宇宙の真理を視覚的に凝縮した曼荼羅、仏像を空間全体に配して体感させる立体曼荼羅、そして細部まで洗練された法具の数々。言葉による理屈に依存せず、視覚や五感を通して人の心身に直接届けようとする工夫に卓越した深さを感じました。
その一方で、展示を見進めるうちに、私の心にはある種の違和感が湧いてきました。
本来は何十年にもわたり寺院の奥で守られてきた秘仏が展示台の上に並び、本来は師から弟子へと厳格に受け継がれるはずの密教の作法が、一部とはいえモニターの映像として淡々と流されている。貴重な公開であるのは間違いありませんが、祈りの対象から離れた鑑賞物として置かれているように感じ、心のどこかで引いている自分を自覚したのです。
そう感じたとき、今年4月に奈良の長谷寺を再訪したときのことが、ふと胸によみがえってきました。長い登廊の石段を一段ずつ踏みしめ、山寺の澄んだ空気を吸い込みながら本堂へと向かう。薄暗いお堂の中に漂うお線香の香り、僧侶の読経や鐘の重低音、そして何百年もの間、人々が手を合わせてきた祈りの積み重ねを肌で感じたとき、自分自身の心身がその空間に自然と一体になっている感覚がありました。
仏像や作法が本来持っている気配は、山や寺院そのものの静けさの中でこそ息づくものなのだと、あらためて実感します。
しかし、展示室を出たあと、この違和感こそが大切な気づきを与えてくれたのだと思い至りました。こうして名宝が一堂に会する場があるからこそ、仏像や作法はそれぞれの山や寺院の静けさの中に身を置いて手を合わせてこそ本来の姿で息づくことを再認識できます。そして、その環境に自ら足を運びたくなる。そこにこそ、こうした展覧会の価値があるのだと思います。
この展覧会は、東京国立博物館(上野)の平成館で9月6日(日)まで開催されています。


