「イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル 2025」に行きました。ピアニストの紹介は割愛しますが、別次元の演奏で、今まで聴いたことのない音の響きに言葉になりませんでした。
印象的だったのが、丁寧に挨拶した後に演奏に入る「間」でした。極めて自然で、聴衆に構えさせる時間を与えませんでした。あまりにスッと始まるので、気がつくと引き込まれている感じで、奏者と一体になるような不思議な感覚がありました。
日頃、私も講習の参加者を相手に同じような感覚になることがあります。
「伝えたい」という思いは大切ですが、「伝えよう」と構えていると、相手への伝わり方はひどく浅くなります。「伝える人」と「伝えられる人」という境界が生じて一体感を失うと、氣が通わない状態になってしまうのです。感動や気づきは、一体となって境界がないときに生まれます。
心身統一合氣道の技で例えれば、相手を「投げよう」として構えた瞬間、「投げる人」と「投げられる人」に区別され、ぶつかってしまいます。一体であるから、導き投げることができます。
おそらく、ポゴレリッチさんには「聴かせよう」という意識などはなく、ピアノを介して、聴衆と同じ時間と空間を共にしただけなのでしょう。
ある企画で、日本を代表する画家さんと対談することになりました。
私がこれまで積み重ねてきたものをお話しするしかないのですが、私は「この対談を通して何が伝わるか」をずっと考えていました。しかし、なかなか氣が通らずに苦しんでいました。
そんなとき、親交のある役者さんから何気ないメッセージを頂きました。
「画家さんと藤平先生のおしゃべり、とても興味があります!」
「おしゃべり」というワードに私はハッとしました。私には「伝えよう」という意識が強く、どうやら構えていたようでした。「伝えたい」という思いは大事でも、「伝えよう」は全く要らなかった。氣が通っている状態で、お互いに感じることを話せば良かったのです。
大手芸能プロダクションのホリプロの創業者の堀威夫さんは、「教えようという意識の人から、学ぶことはない」と言われます。始めは意味が分かりませんでしたが、いまでは分かる気がします。
教える側も学ぶ側も、それぞれの立場で共に学んでいるのであれば、「教えよう」という意識が働くはずがありません。同じ時間と空間を共にして、新しい発見をしていくだけです。
役者さんのメッセージも同じ、「教えよう」という意図がないから大事な気づきがありました。
一体であること。氣が通っていること。本当に奥が深いと思います。