日本語には「間(ま)」という言葉があります。
的確に捉えれば「間が良い」、捉え誤れば「間が悪い」となります。「間に合う」「間が抜ける」「間が持てない」など、様々な表現もあります。
「間」には大きく分けて物理的間隔、時間的間隔、心理的間隔があります。「あいだに何もない」ということですが、意味がないわけではありません。その間隔によって全体が機能するのです。
物理的間隔とは、「何もない空間」です。例えば、部屋の配置で適切な空間があることによって、生活はしやすくなります。反対に、適切な空間がないと生活はしにくくなります。昔の日本建築では固定した壁が少なく、ふすまや障子で仕切られていて、環境や用途によって、使いやすいように空間は自在に変化していました。「広間」という言葉もありますね。
時間的な間隔とは、「何もない時間」です。例えば、音と音のあいだに適切な時間があることで、音に拡がりが感じられます。反対に、適切な時間がないと滞った響き方になります。音は波であり、ひとたび発した音は時間と共に無限小に静まります。その静まる過程において、間が必要なのです。講演やスピーチの間も同じで、聞く人に伝わりやすくなります。
心理的な間隔とは、「人と人との間に存在する心の距離」です。例えば、適切な心の距離で接することによって人間関係は円滑になります。反対に、不適切な距離だと様々な問題が生じます。同じ積極的な人でも、「この人はぐいぐい来て嫌だな」と感じたり、「この人は前向きで素晴らしい」と感じたりします。それは、心の距離を的確に捉えているかで決まります。
間は、頭で考えるのではなく、五感を通じて全身で捉えるものです。間には形がなく、何もない空間や時間を捉えるわけですから、一般的に習得は容易ではなく、年月が必要とされています。
心身統一合氣道の技の稽古でも、物理的・時間的・心理的な「間」が重要です。
初心者から中級者までは、姿勢、技の形、基本的な動きを覚えて上達していくので、稽古の時間と上達は比例します。上級者になると、間を理解することが必要となるため、人によって上達の速度が大きく違って来ます。相手との関わりにおける間を掴むことが稽古の主体になります。
初心者から上級者まで稽古する「呼吸動作」という動きがあります。投げ・受けの両方が静坐し、受けが投げの手首を持って押さえます。
始めは受けが力一杯、投げを押さえて行います。受けの身体には力みがあるのでバランスが悪く、簡単に動かせます。問題は受けの姿勢が整っている、つまり、統一体で持っているときです。こうなると、投げは受けを簡単に動かすことができなくなります。
ここで重要なのが「呼吸」です。この場合の呼吸とは、息を吐いたり吸ったりする呼吸ではありません。「その呼吸だ!」というときの呼吸で、事を行う微妙な「こつ」です。
自分と一緒に相手の心と身体が動くためには、然るべき呼吸があり、その呼吸は間を的確に捉えることによって生まれます。拙速に動けば「間違い」であり、迷って動くと「間延び」です。間に着目することで、呼吸動作の稽古の奥行きを理解できます。
ふと、子どもの頃を思い出しました。
水墨画を学んでいた藤平光一先生は、よく自宅で練習していました。それを見ていた私は真似をしたくなって筆を取らせてもらいました。そして、墨で竹の絵を描いて白い紙全体に埋めました。
父は優しくひと言。
「墨絵は空白が大事。空白は何もないのではなく、空白によって絵の全体が活きるのだよ」
これもまた、「間」の一つです。