「相対化」という言葉があります。一つだけではなく、他との関係において物事を理解することを指します。
あるいは、同じ対象でも「近づいて見る」「離れて見る」など、立ち位置を変えることも相対化の一つです。
私は7歳の頃からピアノを始めて、18歳になるまでの約10年間、レッスンを受けるために、毎週、先生のご自宅に通っていました。
自分から「ピアノをやりたい」と親に頼んだことは覚えていますが、心身統一合氣道の家に生まれて、なぜ、ピアノに関心を持ったのか、今となっては全く覚えていません。
私の先生は、オーケストラと共演をされるような音楽家で、当時、藤平光一先生から「氣」を学んでいらっしゃいました。
先生のところには、どうやら良家の子女が多く通っていたようで、他の子供たちが「先生、ごきげんよう」と挨拶をしているなかで、私だけが「先生、さようなら!」と言っていたのを覚えています。
私は不良生徒でしたから、先生にずいぶんとご迷惑をかけましたが、多感な時期に教えて頂いたことが、今に活きています。
学校の帰りが遅くなり、遅刻しそうになってレッスンに慌てて行くことがあります。その心の状態では、先生はピアノに触れることを許しません。心が静まってからでないと弾かせてもらえないのです。
あるときなど、レッスンの時間内に心が静まらなかったようで、ピアノに触れることなく帰ったこともあります。
心が乱れていると言われても、最初は何のことやらでしたが、これを繰り返すうちに、「心が静まる」とはどういう状態か、次第に身体で分かるようになりました。
心の状態によって、ピアノの音色は明らかに変化します。特に、心が乱れているときは自分の音を聴くことができないため、独りよがりの演奏になってしまうのです。
この辺りは、心身統一合氣道の稽古と完全に一致しています。
心が静まっているから、氣の動きが良く分かる。氣の動きが分かるから、それを尊重して導き投げることができる。心が乱れていると、独りよがりの技になります。
ピアノや合氣道に限らず、何か始める前に「心を静める」ことが、持っている力を発揮する上で極めて重要であるわけですが、これを学んだのは、ピアノのレッスンだったのです。
一つの音の終わりは、次の音の始まりであることも学びました。
たとえ無音の状態であっても、音楽が途切れているわけではなく、音がない時間も音楽の一部です。音符がないからと、そこで氣が切れてはいけないということです。
いわゆる「間(ま)」の感覚は、ピアノのレッスンで学びました。
私には一つの音の終わりに、氣が切れてしまう癖がありました。音を通じて、「氣が切れている」ことを何度も指摘されるのですが、始めは何のことやら、意味が全く理解できませんでした。
しかし、「氣が切れている瞬間」に繰り返し指摘を受けるうちに、氣が切れるとはどういう状態なのか、身体で分かるようになりました。結果として、「氣を切らない」ことも理解できました。
音楽は勿論のこと、スピーチをするにも、合氣道の技においても周囲との繋がりに基づいて、適切な「間」というものが生まれます。氣が切れてしまうと、適切な間が分からなくなってしまうのです。
心身統一合氣道でいえば、一つの動きの終わりは次の動きの始まり、一つの技の終わりは次の技の始まり、氣が切れる瞬間はありません。動いている瞬間だけでなく、動いていない瞬間も大事なのです。
このように、ピアノという異なる分野を学んだことによって、心身統一合氣道の理解が深まりました。これは不思議なことではありません。
「氣」の学びは総ての土台であり、大事なことは根底で繋がっています。他の分野で相対化することで、より深く理解することができます。
これは「異なるものを混ぜる」という意味ではありません。
塩素系洗浄剤の注意書きに「まぜるな危険!」とあります。この表示ではありませんが、異なる考え方・やり方を混ぜることで、物事を身につける上で阻害になることがよくあります。
「氣」の観点を持てば、物事に共通する本質が分かるようになるので、様々なものに触れても混ざらず、相対化ができるのです。
ゆえに、様々な分野の方が心身統一合氣道の「氣」を学んでいます。