前回に続き、誦句集「座右の銘」の解説です。
心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。
ここで初めて「心身を統一する」という言葉が出て来ました。
心身統一合氣道の「心身統一」で、心身統一とは「天地と一体である」ことを指します。
しかし、多くの人が「心と身体の統一」と間違えて捉えています。もし、この理解だとしたら、自分の心と自分の身体の統一なので、「個」のなかで完結することになってしまいます。
「天地と一体である」とは、外界とつながりを持つことであり、それによって周囲のことを理解し、導いていくことが出来ます。心身統一合氣道の稽古の根幹です。
「心と身体の統一」という理解は、まさにそれとは逆なのです。稽古の目的を誤って理解すれば、稽古の方法が変わってしまいます。
私たちは天地の一部の存在で、そのつながりによって生きています。
例えば「呼吸」も、天地とのつながりの一つです。体内に空氣を取り入れ、全身に酸素を送り、二酸化炭素を回収し、また体外に出します。このつながりが滞ってしまったら、たいへんなことになります。
天地とのつながりがなくては生きることは出来ないにも関わらず、私たちはときに、行き過ぎた「個」の意識を持つことによって、あたかも自分独りで生きているような錯覚に陥ります。
そんなときに、様々な不具合が生じるのです。
「天地と一体である」とは、特別な状態ではなく、本来の状態であり、自然な状態であるということです。
誦句集の一文をより丁寧に記述するのであれば、こうなるでしょう。
心身を統一し、即ち、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。
わたしたちは「氣」を通じて、天地とつながりを持っています。
そのつながりが確かなとき、氣は自由に行き来して活発な状態にあります。その状態を「氣が通っている」と言います。
つながりが不確かなとき、氣は自由に行き来出来ず停滞した状態にあります。その状態を「氣が滞っている」と言います。
海中で、海の水を両手で囲うとします。自分の手の中にある水は、「わたしの水」と言えるかもしれません。しかし、実際には「海の水」を自分の手で囲っているに過ぎません。
手で囲った水が海の水とつながりを持ち、自由に行き来していれば、手で囲った水が淀むことはありません。しかし、水の行き来が停滞すると、手で囲った水は淀んでいきます。
「氣」も同じです。
天地の「氣」を自分という存在によって囲っていると考え、氣が自由に行き来していれば、氣が淀むことはありません。
しかし、天地とのつながりが弱くなると、氣は自由に行き来を出来ず、次第に淀んでいくことでしょう。
氣の滞りは、心身の不調や人間関係の問題となって表れるので、「氣が通っている」ことが最も重要だということです。
そして、心身統一する(天地と一体である)ための具体的な方法が、「心身統一の四大原則」なのです。
次回に続きます。
【参考】誦句集
一、座右の銘
万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう。心身を統一し、天地と一体となる事が我が修行の眼目である。
心身統一の四大原則
一、臍下の一点に心をしずめ統一する。
二、全身の力を完全に抜く。
三、身体の総ての部分の重みを、その最下部におく。
四、氣を出す。