「洗心の行」は寒中で水をかぶる行(ぎょう)です。
元々は先代の藤平光一宗主が、新しい一年を迎えるタイミングで、生家である代官屋敷の堀に入っていたのが始まりです。それをみていた弟子が一人、また一人と「自分もやりたい」と増え、堀に入りきらなくなって、場所を鬼怒川に変えることになりました。
当時、最も多い年で400名を越える皆さんが鬼怒川に入りました。壮観な画のためか、毎年、テレビのニュースにもなっていました。現在では、鬼怒川の環境が洗心の行に適さなくなったことから、栃木にある本部宿泊研修施設内にある「洗心の行場」で行っています。
鬼怒川時代をご存知の方は「川の方が寒かった」と言われますが、両方の経験があり、現在も行を続けている私の実感では、どちらも変わりはありません。
私が初めて洗心の行に参加したのは7歳のときでした。当時はまだ親子の関係であった藤平光一宗主に手を引かれて、「今日はお父さんと良いところに行くんだよ」と連れて行かれたのが、氷点下5度の鬼怒川でした…。
やりたくないと駄々をこねている間は寒くて仕方なかったものが、やるしかないと心を決めた瞬間に感じ方が変わります。環境は何一つ変わらないのに、耐えられない寒さでなくなるのです。風邪を引くこともまったくありませんでした。とても不思議な体験でした。
今にして思えば、まさに「心が身体を動かす」であり、心の状態が身体の状態にどれだけ影響を与えているかを学んだのでしょう。このときの体験が、私の土台を作ったのは間違いありません。
洗心の行の目的は二つあります。
一つは「心を決める」こと。ひとたび心を決めれば、困難に見えることも乗り越えられる。それを根性論ではなく、身体で体得することです。心が決まらないと寒くて一瞬たりともいられませんが、心が決まれば、寒さを正面から受け入れられるようになります。それを理解したら、日常生活での心の使い方に活かすことです。
もう一つは「過去の良いことも悪いことも水に流す」こと。人間は何事にもとらわれやすいもの。ひとたび心がとらわれて、心の停止状態になってしまえば、目の前のことに心をまったく使えなくなります。
実際には、悪いことにとらわれる以上に、過去の成功や実績など、良いことにとらわれる方が多いものです。だからこそ、悪いことだけでなく、良いことも水に流します。新たな氣持ちで新年を迎えることです。
今年も氷点下のなか、100名以上の皆さんと洗心の行を全うしました(定員が100名です)。やるまでは「辛くて仕方なかった」という人でも、やり遂げてみると、「また来年やりたい」となるのが面白いところです。
寒中に水をかぶるからといって、人間的に偉いわけではありません。洗心の行で会得したことを、今度は日常に活かすことが大切です。
「日々、行う」ことこそ「行」なのですから。