藤平信一です。
相手が力いっぱい自分の手首をにぎって、押さえるとしましょう。
そうすると、持たれたところ(=手首)に意識を取られてしまい、持たれたところから動こうとして、動けなくなってしまいます。
しかし、冷静になってみれば、持たれているのは手首だけで、
手首以外は自由に動けるはずです。
それにも関わらず、全身が動けなくなってしまうわけです。
これは、心が一つのことにとらわれてしまった結果、
他のことに心をまったく使えなくなる最たる例です。
藤平光一宗主は、これを心の「停止」状態と定義しました。
この停止状態は日常生活でも頻繁に生じています。
トラブルなど自分が望まない出来事が生じると、それにとらわれ、
他のことにまったく心が向かなくなります。
本来すべきことに心を使えなくなってしまうのです。
誰かに悪口を言われると、一日中それが氣になってしまって、
何も手がつかなくなるという人もいます。
ひとたび心が停止すると、自由に使えなくなるということです。
私たちは、一日のなかでも何度もこの停止状態に陥っています。
しかし、たいていは自覚がないので全く氣づいていません。
「停止」と対になる状態が「静止」です。
静止とは心が静まっていて、一つのことにとらわれることなく、
いつでも自由に心を使える状態を指します。
厄介なのは、一見すると「停止」と「静止」はよく似ているので、
はじめはほとんど見分けがつかないことです。
そこで、道場での技の稽古でその違いを感じることが重要なのです。
冒頭の「手首をつかむ」例に戻りましょう。
臍下の一点に心を静めて、相手に力いっぱい手首を持たせます。すると、今度は手首に意識を取られることがなくなっています。
手首以外は自由に動けることが感覚的にも分かるので、
動けるところから動けば、相手を導き投げることが出来ます。
日常でいえば、仮に生じているトラブルはすぐに解決しなくても、
他にも出来ることはたくさんある、ということです。
出来ることから行えば、物事を着実に進めていくことが出来ます。トラブルに心が奪われてしまうと何も手につかなくなります。
心が静まった状態で物事に臨む「準備」「備え」が最も重要であり、
それによって、一つのことに心がとらわれなくなります。
私も日々、「静止と停止」をテーマに自分の心の状態をみています。
上記の例では、心が乱れていると相手に「持たれる」ことになり、
心が静まっていると相手に「持たせる」という感覚が生じます。
「持たれる」「持たせる」は一字違いでも結果は天と地ほど違います。
人前に出るときの「見る」「見られる」も同じことです。
臍下の一点に心を静めることは、心を停止させない具体的方法です。
ご一緒に日常生活で訓練して参りましょう。