道とは

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藤平信一です。

「心身統一合氣道」に限らず、日本には「道」のつく学びがあります。「道」の解釈は無限にありますが、私は文字通り「道(みち)」と捉えています。

「道」は永続性を表しています。道は未来に向けて連綿と繋がっています。もし、途中で切れていたら、それは「道」とは言えません。

その性質から、人生もよく「道」に例えられます。

いま自分が何をすべきか、自分がいましていることの意味を知るには、目先のことではなく、「道」として捉えることが重要なのです。

我々は自分たちが学んでいる道場を掃き清めます。

スポーツジムに通う人は、おそらくジムを清掃することはないかもしれません。道場の場合、そこで稽古する者が一緒になって道場を掃き清めます。

始めのうちは、「なぜ清掃をするのか」疑問に思う人がいるようです。そんな時間があるのであれば、稽古する方が良いのではないか、と。

もし、心身統一合氣道をテクニックやノウハウとして学ぶのであれば、清掃などはまったく無駄な時間に見えることでしょう。

もし、心身統一合氣道を「道」として捉え、長いスパンで学ぶのであれば、清掃が決して無駄な時間ではないことが分かります。「清掃する」ことは「自分の心と向かい合う」こと。自分の成長に繋がっています。

事実、藤平光一宗主の内弟子時代、道場やその周辺をよく清掃していました。始めのうちは意味が分かりませんでしたが、日々清掃を続けるうちに、自分自身の心の変化に氣づくようになりました。

一つ一つのことに細かいことにまで氣が届くようになり、それまで氣づかなかったことにも氣づけるようになってくるのです。

それは稽古の質に直結し、技の理解も深くなることが身体で分かりました。本当に身につけるには、「清掃」もまた大事な稽古であったのです。

「修行においては、望む望まないに関わらず目の前のことを全力でやれ」と、清掃に限らず、藤平光一宗主は私にありとあらゆる事を経験させました。

その結果、現在の自分があります。今となってみれば、何でもさせて頂いて本当に良かったと思います。

若くて未熟なうちは「これをやって何になるのだろう」と考えがちです。それが無駄なことかどうかは、「道」として捉えてはじめて分かるのです。人生を「道」として捉えれば、無駄なことなどほとんどありません。

失敗や挫折も、出来れば経験したくないものです。目先のことだけしか見えていないと氣は滞り、氣力もなくってしまうでしょう。

しかし、「道」という視点であれば失敗も挫折も大事な経験であり、それが必ず将来に繋がると信じることが出来ます。だからこそ乗り越えて行けるのです。

「道」という考え方は、目先のことにとらわれやすい人の心に対して、「長いスパンで物事を捉える」先人の知恵だと、私は考えています。

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