
私が子どもの頃、大事を取って父が病院に入院したことがありました。一週間ほどで退院しましたが、母は毎日、個室の病室で付き添って世話をしていました。
あるとき、隣の病室から子どもたちが騒ぐ音がしました。イライラした母は、「病院なのに、なんて非常識な!」と怒っていました。私には、怒る母の方がよほど音を立てていると思いましたが、確かに病院は静かにするところではあります。
ちょうどそのとき、看護師さんがケアのために父の病室に入って来ました。騒音について母が訴えると、看護師さんはお詫びを言われ、隣の病室のご家族の事情について説明をしてくれました。たいへんなご苦労をなさっているようでした。
すると、一瞬で母のイライラは収まって、そればかりか、隣の病室のご家族にいろいろ心配りをするようになりました。つい先ほどまで「非常識だ!」と騒いでいたのに、です。
どちらが本当の母なのか。そう、どちらも本当の姿です。唯一の違いは、相手の事情や思いを知っているかどうかだけです。
「知らない」は不理解を生みます。
「不理解」は不寛容を生みます。
「不寛容」はストレス過多を生み、トラブルが生じます。
「無理解」という言葉が一般的ですが、この場合は「不理解」という表現が正確でしょう。意図的な拒絶や共感の欠如ではないからです。
誰かに嫌なことをされたら、気分が悪いのは当たり前。ただ、相手がなぜそのような行動を取ったかを知ることで、状況は変わらないのに許容しやすくなります。結果として、ストレスを受けにくくなるということです。
相手のことを知って理解することは、相手のためであると同時に、自分のためでもあるのです。相手のことを知らないから、自分の頭で解釈して補います。これが不理解の始まりです。
インターネット上での誹謗中傷が社会問題になっていますが、対象となるのは主として「よく知らない人」です。思いや事情をよく知っている人には、そういうことはしにくいものです。
「知る」といっても、相手の秘密を探ることではありません。「どんな食べ物が好きか」「どんな趣味を持っているか」など、たわいもないことから始めることです。
いきなり大事な話をしようとすると、自分も相手も身構えてしまい、話をすること自体に負担を感じてしまいます。相手のことを知ると、自然と深い話もできるようになります。
昨今では「知らない人と時間を過ごす意味がない」と、交流の場に全く顔を出さない人が多くなりました。懇親が楽しくない人にとっては地獄なのでしょう。しかし、交流とはお互いを知ることであり、許容力を上げてストレスを軽減する機会なのです。
毎日、顔を合わせる必要がある人であれば尚さらです。
「自分がいる場所」が常に快適であることなどあり得ません。そういった居場所を求めても、どこにも見つかりません。許容力を上げて、自分のいる場所を快適にしていく努力が大事。
知ることは理解の第一歩。「相手の立場に立つ」実践の一つなのです。

