
人を成長させようとするとき、私たちは日頃、相手にとって「良かれ」と思って手厚い環境を整えたり、過剰に手助けをしたりしがちです。
ここには意外な落とし穴があります。意図的にそうした枠組みを作ろうとすると、「育てる」ことがいつの間にか「コントロールすること」に変質し、相手の主体性や伸びしろを阻害してしまうのです。
先日、講習会の指導でアメリカ・オレゴン州のポートランドを訪れる機会がありました。講習が無事に終了した翌日、現地の方が観光の案内をしてくださいました。
ポートランドの中心街から車で1時間ほど走ると、高品質なワインを産出するブドウ畑がどこまでも広がっています。畑の中には数多くのワイナリーが点在し、それぞれが工夫を凝らして、訪れた人がテイスティングを楽しめるようになっています。
私は昨年からほとんどお酒を飲まなくなったのですが、せっかくご案内いただいたので、テイスティングを体験することにしました。
私はワインの専門的な知識を持ち合わせているわけではありませんが、飲み比べてみると確かに違いが分かります。ハッとさせられたのは、同じ畑で育ったブドウであるにもかかわらず、「天然の雨水だけで育ったもの」と「人工的に水を与えられて育ったもの」とで、味わいが異なることでした。
水を与えられて育ったブドウの木は、地表近くの浅いところに根を伸ばすそうです。簡単に水分が得られるため粒は大きく育ちますが、その分、あっさりとした味わいになります。自然の雨水だけで育ったブドウの木は、生き残るために自ら地中深くへと根を伸ばします。目に見えない深い地層から大地の成分を必死に吸収することで、深い味わいを醸し出します。
雨水だけで育った一杯は、何とも言えない力強く繊細な響きのある味わいがありました。過酷な環境を生き抜いたブドウが持つ深みと、それを支える大地の力強さが伝わってきます。
もちろん、ただ厳しい環境に突き放すだけでは、ブドウも枯渇し力尽きて駄目にしてしまうでしょう。過保護でも放任でもない、ブドウが「自ら深く根を張るような環境を調える」という育成の考え方に、私はたいへん感銘を受けました。
先日、ピアニストの桑原志織さんのリサイタルで、演奏の中に「力強さ」と「繊細さ」の共存を感じましたが、どうやらワインにおいても同じ共存があるようです。どちらも盤石な土台が不可欠で、ワインの場合は、地中深くに根を伸ばすことでそれを得ているのでしょう。
この「自ら深く根を張る」という姿勢は、人間の学びや成長においても極めて重要です。
指導における「教える」を、ブドウの育成における「水を与える」に喩えれば、大切なのは水をやるかやらないかではありません。自ら根を伸ばしたくなる環境をいかに調えるかです。
手助けが多すぎれば根は浅くなり、反対に、全く顧みなければ枯れてしまいます。甘やかすのでもなく、突き放すのでもない。その時々の相手の状態をよく見て、本人が自分の力で深く根を張れるような適切な距離と環境を保つことこそが、育成する者の役割です。
時代と共に相手との関わり方は変化します。旧態依然とした関わり方を変えられず、現代においてハラスメントとなってしまうケースも少なくありません。しかし、全ての教育が「自立」を目指すものであるならば、時代の変化に左右されない確かな「あり方」があるはずです。
現代の情報社会では、何でも簡単に情報を入手し、手軽に答えを教えてもらえる環境が整っています。最初から「与えられること」が当たり前になってしまうと、自ら工夫し、研究しようとする主体性が失われてしまいます。AIの進化を止められない以上、この傾向は今後、際限なく高まっていきます。
「教える」のが正解でも、「教えない」のが正解でもありません。
指導する側が安易に答えを与えず、本人が試行錯誤する「ゆとり」を残しておくからこそ、相手の中に「知りたい、やってみよう」という動機が生まれます。自ら求めて深く掘り下げ、地道に反復して根ざした学びだけが、その人の血肉となり、揺るぎない奥行きとなります。
与えられた環境に依存せず、自ら地中深くの岩盤を目指して根を伸ばすブドウの木のように。一人ひとりが主体性を発揮し、自ら深く根を張っていける環境を創ってまいりましょう。

