時と場所を超え、伝わる

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人を見て法を説け。お釈迦様は仏法を説く際、その人に応じた方法で説法したと言われます。

相手の性質や状況をよく理解した上で、その人に相応しいやり方で伝えることが大事ということです。心身統一合氣道の指導で私は多くの皆さんと関わっていますので、この故事を常に心に置いています。

同じ人間は一人として存在しませんので、伝え方も千変万化します。上手くいくことばかりではないので、いつも奥深さを感じています。

何ごとにも「ちゃんとしようとする人」がいます。

行き過ぎれば固く考えやすく、心の固さは身体の力みに繋がります。そんな人には「ちゃんとしなくて良いのですよ」とお伝えしています。

反対に、何ごとにも「ちゃんとしていない人」がいます。悪く言えばだらしがなく、それでは身につくものも身につきません。そんな人には「ちゃんとしないといけませんよ」とお伝えしています。

相手によってかける言葉は変わるわけですが、ここだけを切り取ると、あるときは「ちゃんとしなくて良い」と言っていて、またあるときは、「ちゃんとしなくてはいけない」と言っていることになります。

同じ人間の発言なのに、言っていることが変化しているわけです。

これが何を意味するか。

師匠から教わる内容は、弟子それぞれによって異なるということです。

自分が触れていたのは師匠の一部であり、決して全部ではありません。ここを間違えると「自分が最も理解している」という、思い上がりに陥ってしまうのです。

そもそも、弟子は自分のフィルターを通じて師匠に触れていますから、自分が理解していることは師匠の一部でしかありません。

だからこそ、他の人が、何に触れ、どのように教わったかを知ることは、師匠の実像を理解する上で重要な助けになるのです。

私は、藤平光一先生と同じ時代に生きて、学んで来た年長者の存在が、この上なくありがたく感じています。

藤平光一先生から直に指導を受けてきたベテランの指導者がいます。

この方は、お若い頃に古民家解体作業をしていました。泥だらけになり、何とか稽古場にたどりついたものの足は真っ黒でした。稽古が終わると、藤平光一先生は濡れタオルで自身の足を拭きました。

今まで一度もなかったことなので、この方は不思議に思ったそうです。

一週間後の稽古も汚れた足で参加したところ、また同じように拭いています。そこでハッと氣づいた指導者は、次の稽古で足を綺麗に洗って参加しました。すると、藤平光一先生は足を拭くことは止めたそうです。

相手を傷つけることなく、相手が自ら氣づけるように伝える。誇りを持って仕事する相手に、ただ足の汚れを指摘することはしなかったのです。

そこに、藤平光一先生が「何を大事にしていたか」が見えるのです。

この出来事に感銘を受けた指導者は、生涯にわたって藤平光一先生に師事し、現在でも活動を続けています。

こういったお話から、藤平光一先生はすでに逝去されているのに、時間と場所を超えて、いまこの瞬間に語りかけられる感覚になります。

本当に大切なことは、「人から人に伝わる」からでしょう。

いつか、それらを一冊の本にまとめたい、と考えております。

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