日本画家の小倉遊亀先生は105歳という長寿を全うされました。藤平光一先生に同行し、鎌倉にあるご自宅を訪問したことがあります。
遊亀先生は、藤平光一先生の師匠の一人である小倉鉄樹先生の奥様で、藤平光一先生が鎌倉に参禅するたびにお世話になったそうです。
私が訪問したときには、かなりのご高齢で、藤平光一先生との再会を涙を流して喜んでいらっしゃいました。
遊亀先生は車椅子の生活でしたが、毎日、筆は持ち続けていました。その日は、バナナを題材に静物画をお描きになっていました。
ご家族の話によれば、筆の進みがゆっくりなので、バナナが次第に弱り、黄色から茶色、茶色から黒色に変化していくそうで、遊亀先生のお描きになるバナナも、日々、変化していきます。
最終的に、ご自身の画の黒いバナナをみてひと言。
「不味そう……」
画を完成させるだけならば、似た形の新しいバナナに取り替えれば良いわけですが、見たままに、感じたままに、真っさらな心の状態で描き続けるお姿に衝撃を覚えました。
「画を描くとは何か」を深く考えさせられました。
その後、藤平光一先生の下で私の内弟子修行が始まりました。
大きな壁が立ちはだかり、総てが上手くいかなくなることがありました。それも一度ではなく、何度もその状態に陥ります。
あるとき、ふと小倉遊亀先生のことを思い出しました。
「そうか。自分は目の前のことを何も見ていない、感じていないのだ」
いまこの瞬間に、心が向いていなかったのです。
藤平光一先生が大事なもの、素晴らしいものに触れるときは、毎回、初めてのような反応を示していました。
お供をしていて「前回も同じことがあったのに、お忘れになっているのでは」と思うことがありましたが、実はそうではなかったのです。
毎回、真っさらな状態で心を向けているからこそ、藤平光一先生は新鮮な感動が得られていたのでした。
稽古においても、同じ動作を繰り返すうちに、「なぞる」ことを始めます。
私が物事に行き詰まるときは、過去の体験がすでに心にあって、目の前のことに心が向いていないときに生じることに氣がつきました。
一回ごとに真っさらな状態で心を使うから身につきます。
「稽古とは何か」を深く考えさせられました。
身体は鍛えれば自在に使えるようになります。心も同じであり、鍛えれば自在に使えるようになります。
同じことをするにも、毎回、真っさらな状態で心を向けることを訓練すると、悪い意味での慣れが生じません。毎回、新しい発見があります。
反対に、日常でなぞることを繰り返すと、慢性的な慣れが生じて、何をしても感動や発見がなくなっていきます。
人に何かをしてもらうことに慣れてしまうと、当たり前になります。すると、感謝の気持ちも持てなくなっていきます。
これは、とても恐ろしいことです。
経営者団体の外部講習で質疑応答をしたとき、一人の経営者から、「自分は何をしても感動が得られないのです」という相談を受けました。事業は順調、家族も元気で、何一つ問題がないにも関わらず、です。
お顔は土気色をしていて、生気がまったくありませんでした。
「本日の講習で体験されていかがでしたか」とお尋ねすると、「今日は楽しかったです」と答えます。そこで「それでは思い切って、稽古を始めてみませんか」とお誘いしました。
初めてのことに全身全霊で取り組むことが、真っさらな状態で心を向ける訓練になったのでしょう。そのうちに昇級審査に合格して、子どものように喜んでいらしたのが印象的でした。
今でも様々な瞬間に、私は小倉遊亀先生の画のことを思い出します。
さあ、今日も新たな一日です。