私が内弟子修行していたときの話です。
最初の年は、稽古の時間よりも掃除の時間が圧倒的に長く、「掃除するために内弟子になったわけではないのに」と思っていました。
そんな心の状態が「氣」で伝わってしまったのでしょう。あるとき、藤平光一先生に呼び出されて、「毎日、掃除ばかりしているので不満そうだな」と尋ねられました。
私は「そんなことはありません!」と答えましたが、「嘘を言うな」と…。氣の先生に誤魔化しは通じません。私は「なぜ、こんなに掃除ばかりなのか分かりません」と打ち明けました。
藤平光一先生は「それは、目先のことしか見ていないからだ」と答え、内弟子修行においては、たとえ今は意味が分からなかったとしても、「できない」「意味ない」「関係ない」という言葉は使うな、と言いました。
さらに、「同じやるなら、楽しくやる工夫をしなさい」と言われたのです。
それならばと、私は日々、目標を決めて掃除することを始めました。
一つ一つの作業の時間をはかり、段取りを良くして目標時間内で終えよう。掃除の順番を変えて、いちばん能率の良い流れをみつけよう。掃除用具の置き場所を工夫することで、動きの無駄をなくそう。
そういった工夫の積み重ねによって、昨日より今日、今日より明日が、少しずつ良くなっていくことが感覚的に分かりました。嫌々取り組んでいたことで、どれだけ時間を無駄にしたかも自覚を持ちました。
あれから25年が経ち、現在の自分ならば良く分かります。
何事においても、この姿勢があるから成長します。心身統一合氣道の稽古に取り組む基本姿勢、「そのもの」だったのです。
内弟子時代、私は目先ばかりを見ていたので、「いったいこれが何の役に立つのか」と、毎日の掃除の時間が無意味に感じられました。
先のことまで見えていれば、掃除の意味を私は理解できたのかもしれません。しかし、若く未熟な頃は視野が狭く、目先にとらわれやすいので、あの状態では理解はできなかったことでしょう。
先生を信じて実践したからこそ得られたものでした。「先を生きている」からこそ、大事な方向を指し示していたのです。
人間は「目先のこと」にとらわれやすいものです。目先の成果や利益しか頭にないと、部分最適で物事を判断してしまいます。
特に、「人を育てる」ことは時間がかかるので、目先のことばかりになると、人を育てることを疎かにしたり、放棄したりします。
それは国や組織における衰退の表れであり、日本が抱える大きな問題の一つです。これを防ぐには、「目先のことにとらわれない」ための具体的な工夫や対策が必要です。
私にとって、それは「年配者の話を大事に聴く」ことなのです。
現代社会では年配者を「老害」と揶揄する風潮がありますが、とんでもないことです。長い時間をかけて一つ一つ工夫を積み重ねて来た方は、目先のことではなく「何が大事か」を語っています。
20歳のときに50歳の自分は想像できませんし、50歳のときに80歳の自分は想像できません。誰しも「今、この瞬間」を初めて経験しているのですから、本当のところは何も分かっていないはずです。
「一生」というスパンでみて、はじめて分かることがあります。だからこそ、私は90歳を迎える広岡達朗さんのお話を大事にしています。私だけの財産にせずに、『広岡達朗 人生の答え』という本にしました。
この本の企画で、「気持ちの切り替えが下手で、失敗を引きずってしまいます」という広岡さんへの質問がありました。
広岡さんはこのようにお答えになりました。
「それは気持ちの切り替えが下手なのではなく、目先のことに心が向いているのです。失敗したら落ち込むこともある。落ち込んだとしても、また先を見ればよいのです。人生、そこでおしまいではないのだから。」
ああ、なるほど。氣が滞ると目先のことしか見えなくなります。だから、失敗が「人生の終わり」のように感じて立ち直ることができない。先まで見えているから、その失敗は成功の元になるわけです。
気持ちは無理に切り替える必要などなく、まずは氣の滞りを解消して、未来に向けて氣が通えば、自然に心は前向きに変わっていきます。
目先ではなく、先を見るための「氣」の学びなのです。