学び続ける

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いま、ある企画で野球の広岡達朗さんと何度も対談を重ねています。

来年2月9日に90歳を迎える広岡さんは、現在も精力的に活動されていて、「どうしたらその人が持っている力を引き出せるか」を日々、研究し続けていらっしゃいます

そんな広岡さんは、日本のプロ野球の将来を危惧なさっています。

広岡さんのお話によれば、日本のプロ野球選手は現役時代に活躍すると、「成し遂げた」という気持ちになり、勉強しなくなってしまうそうで、指導者としてほとんど学ぶことなく、監督・コーチになるのだそうです。

日本のプロ野球には指導者として学ぶ確固たる仕組みもないそうで、学ばない指導者が育てたら、学ばない選手が育つのも当然とのこと。

目先のことしか見なければ、学ぶことを怠っても影響ないように見えます。しかし、10年後、20年後を見据えれば、学ぶ姿勢を失った人や組織がどうなってしまうのか、気づいたときには取り返しがつかなります。

「近い将来、日本の野球界は間違いなくそのツケを払うことになります」

広岡さんはこう言われますが、この悪循環は決してプロ野球だけではなく、あらゆる分野で生じていることで、日本の未来を決定づける最重要課題の一つだと私は感じました。

日本には「道」のつく学びがあります。本来、「道」がつく学びは一生かけて学び続けることが前提で、目先のことに左右されずに、長期的な視点で一つずつ着実に積み重ねることに重きを置くものです。

手っ取り早く情報が得られる現代だからこそ、一生というスパンでみる「道」が果たす役割があるのだと思います。広岡さんも日々、心身統一合氣道から学ばれていると言われます。

「学び」そのものについても、広岡さんは食事を例えにお話されます。

いくら外食が美味しくても、外食ばかりでは栄養のバランスは偏り、人間は刺激に慣れていくので、そのうち美味しく感じなくなります。

日々の質素な食事が体を作っているのです。質素だからこそ、毎日美味しく食べられるように、作る側も食べる側も様々な工夫が必要です。

美味しく感じているときは唾液が十分に出て、消化の助けになります。唾液は細菌の繁殖を抑え、病気の予防にもなります。

しかし、現代人はスマートフォンや新聞などを見ながら食べ物を口に放り込んだり、良く噛まずに飲み込んだり、「栄養だけ取れれば良い」という心身分離の食事の取り方をしています。

「心が身体を動かす」のですから、食べ物にしっかり心を向けなければ唾液は少なくなるわけで、自らそういう状況を作り出しています。昔から言われる「感謝して頂く」ことには、きちんと意味があるわけです。

天地自然の理に反することをしながら、いざ体調が悪くなると、他力本願で病院に行って医者に治してもらおうとする。それでどうやって健康を維持できるのか、と広岡さんは言われます。

これは食事の取り方に限ったことではなく、「何事においても心を主体的に使うことによって、人間が本来持っている力が発揮されるのです」と広岡さんは言われるのです。

その言葉に私はハッとして、「学びも同じことですね」とお尋ねしました。

日々の地道な稽古によって身につくのですから、楽しんで学ぶことが大切で、ただ教わるのではなく、一つ一つの技にしっかり心を向けて主体的に取り組むことが重要です。

それが食事における唾液と同じ役割を果たすのでしょう。

同じ技を繰り返すとします。目標もなく、何となく身体を動かすだけでは決して向上しません。

同じやるなら、呼吸が乱れないことをテーマにやってみよう。
同じやるなら、最初から最後まで同じペースでやってみよう。
同じやるなら、視線が落ちることがないようにやってみよう。

主体的に取り組むことで、昨日より今日、今日より明日が必ず良くなります。飽きることなく積み重ねることが「稽古」なのです。自ら心を向けて、工夫をすることこそが「学び」だということです。

当たり前のことに聞こえますが、実際はできていない大事なこと。

特に「教わる」ことが当たり前になると、主体的に取り組む姿勢が欠如して、そこには何の工夫も研究も生まれなくなります。

教え方が親切になることは、教え方の工夫や研究においては良いことですが、ともすると学ぶ側の主体性を奪いかねません。「教える側」も学びならば「学ぶ側」も学び、常に学び続けることです。

私自身も一生、学び続けていきたいと思います。

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