ロサンゼルス・ドジャースから公式に依頼を頂き、2010年から3年間、若手最有望選手に現地のキャンプで「氣」の指導をしました。
世界中から野球の才能に溢れる若者をスカウトするわけですが、その中でも球団が最も期待をしているトップレベルの選手たちです。
そんな彼らの練習を日々見守っていると、ある共通点に氣がつきます。それは、一つ一つの動作を「事も無げ」にすることです。
投げるにしても打つにしても実に簡単そうで、素人の私でも出来るような錯覚を覚えます。勿論、そんなはずはありません。無理や無駄のない動きに派手さはなく、あまりに自然で落ち着いて見えたのでした。
表現や演出においては「派手に見せる」こともあるのかと思いますが、真の動きは対極にあることを現場で学びました。
アメリカのイエローストーン国立公園を訪れたときのことです。
川沿いをドライブしていると、川の側に「危険」の警告が出て来ます。しかし、川の流れは極めて静かで、とても危険だとは思えません。
危険の意味はすぐに分かりました。しばらく川沿いに下っていくと、何とそこには超巨大な滝があったのです。
一見すると静かにみえた水流は、実はたいへんな勢いを持っていて、その流れに巻き込まれたら助からない、という警告だったのです。
波や水しぶきが派手に立っている方が勢いがあるように見えますが、実はそうではなく、川底が浅かったり、岩があったりするためです。
落ち着いてみえる状態が大変な力を持っている一つの例であり、見た目だけで判断することはできない、ということです。
フランツ・リストが作曲したピアノ曲に「超絶技巧練習曲」があります。
文字通り超絶した技巧を必要として、通常のピアノ学習者のレベルでは、譜面を追うことだけで精一杯です。
技術が不足していると曲として成立せず、技術だけを追い求めてしまうと、派手なだけで落ち着きのない曲になってしまいます。
真のピアニストが演奏すると、恐ろしいほど多くの音があるにも関わらず、見事に調和して、落ち着いて聞こえるのです。
ケマル・ゲキチ氏が演奏する「超絶技巧練習曲」は、その一つでしょう。
技巧を究めたフランツ・リストが、基礎教育を重んじていたカール・ツェルニーに師事していたことも興味深いところです。
基礎があってこその技巧であり、無理や無駄が削ぎ落とされていく過程で、「落ち着き」を得るのだと私は考えています。
「落ち着き」と「緩慢」は似て非なるものです。始めから落ち着きを求めるのは誤りであり、緩慢になってしまうことでしょう。
心身統一合氣道の技も同じことがあります。
派手な動きには無理や無駄があるということであり、それらが削ぎ落とされていくと、激しい動きの中にも落ち着きが生まれます。
心身統一合氣道では木製の剣や杖(じょう)も用いて稽古します。剣や杖も同じで、無理や無駄がなくなって、自然な動きになればなるほど落ち着きが生まれます。
落ち着きのある動きには、実は、大変な力があります。反対に、落ち着きのない動きには力がありません。ましてや、緩慢な動きには、まったく力がありません。
「落ち着き」とは、本当に面白いものだと思います。
日々の稽古において、この視点でご自身や他の人の動きをみてみると、新たな発見があるかもしれません。
ちなみに、堀威夫さんは「落ち着き」を体現したような方です。