宮大工の世界では「木の性質をみる」ことが重要とされています。
同じ種類の木でも、北向き・南向きなど場所によって質が異なり、建物に使用するときは生えていた環境をふまえて用いるそうです。木の性質を見極めて、適材適所で活かすことが求められています。
藤平光一先生は、「心とは性質である」と説きました。木や石にも心はあり、野菜にも心がある、ということです。
人参には人参の性質があります。大根には大根の性質があります。人参に白粉をつけても大根にはなりません。人参の性質を理解するからこそ、人参の良さを引き出せます。
勿論、人間も一人一人異なる心(性質)を持っています。
その性質が適切に表れるのが「長所」であり、反対が「短所」です。「長所」「短所」という性質があるわけではありません。
長所と短所は表裏一体のようなもので、発現の仕方が変わることで、短所が長所に変わることも少なくありません。
人をより良く導いていくためには、その人の心を真っ直ぐみること、すなわち、性質を理解することが不可欠なのです。
「性質」は、「能力」と混同されることがあります。
先日、ある親御さんからお子さんの反抗について相談を受けました。そこで、親御さんにみえるお子さんの性質を尋ねることにしました。
親御さんは「学校の成績は悪くないです」「運動は得意です」「英語が出来ます」と説明されるのですが、私は何ともいえない違和感を覚えました。それはお子さんの「能力」であって、「性質」ではないからです。
お子さんは日頃どんなことを大事にしているのか、お子さんは日頃家族や友だちとどう接しているのかを知りたかったのですが、この親御さんからは、最後までそういう話は聞けませんでした。
私は、反抗の原因はそこにあるのかもしれない、と感じました。「人=能力」という捉え方をしていると、その人の性質をみていないので、心を無視しているからです。存在の否定になってしまうのです。
能力偏重の社会では、学校でも会社でもこの捉え方が土台にあるので、「能力がない=存在する価値がない」と考えられています。家庭までそうであったら、お子さんの居場所はなくなってしまいます。
また、特別な能力を持つことで存在する価値が得られると考える人もいます。「人=能力」と捉えてしまうと、能力を持つ者を妬み、持たない者を蔑みます。それは、出口のない迷路に迷い込むようなものです。
能力は大事なものです。そして、能力は一人一人が持つ性質を正しく理解することで発揮されます。
人の性質を理解することは決して簡単ではありません。言葉に出来ないものであり、「氣」で伝わるものだからです。
一度の機会、短い時間で見極められれば良いのですが、私の場合、日頃のたくさんの細かなやり取りを通じて、少しずつ理解出来ます。
例えば、無口のお子さんは、一見すると「活発でない」ようにみえますが、感じたことを書いてもらうと、実はたくさん話をするお子さんより、物事を注意深く物事をみているのが分かることがあります。
「氣」を通じて相手の性質を理解するプロセスこそ、人を導く上で最も重要ではないかと私は思います。
心身統一合氣道の道場・教室は、性質を理解する場でありたい。性質が適切に発現することで、能力が発揮される場でありたい。
本年の最も大切なテーマの一つです。