東京大学先端科学技術研究センターの西成活裕教授は「渋滞学」という学問を確立したことで有名です。
10年以上にわたって取り組んで来た研究内容をまとめた学問で、「渋滞学」という名称は、西成先生が独自に命名されたものです。
現在では道路の渋滞に限らず、社会生活の中の様々な流れで起こる渋滞について、国や日本を代表する企業と共同研究をなさっています。約3年前から心身統一合氣道を熱心に稽古なさっています。
そんな西成先生、10連休となったこのゴールデンウィーク中は、連日、渋滞の解説のためにテレビ各局から引っ張りだこでした。
番組で西成先生が言われていましたが、連休中の渋滞は、車の数が多すぎることによって生じているので、混む時間帯を避けるしかないようです。しかし、そこまで車が多くない場合に起こる自然渋滞については、私たちのちょっとした心がけで回避することが出来ます。
「渋滞」は、最初の一台のブレーキ(減速)に端を発しています。後ろに続く車が十分な車間距離を取っていないとブレーキが連鎖し、それがさらに後方の車に伝わって渋滞となっていきます。
特に、勾配4%程度の緩やかな上り坂だとドライバーが氣づかず、無意識のうちに車が減速して、さらに車間距離が不十分だと、後続の車がブレーキを踏むことになり渋滞が起こるとのこと。
どうやら「無意識」と「車間距離」がキーワードのようです。「無意識」はともかく、「車間距離」については私たちの心がけ次第でどのようにでもなるわけですから、やらない理由はありません。
ある番組では、上空から渋滞の先頭を撮影していました。それは、高速道路の入口で車が本線に合流する場所で、三車線の流れが二車線に狭まってしまうことで生じていました。とても興味深い映像でした。
さて、「渋滞」という言葉を、「滞り」に置き換えて考えてみましょう。
どれだけ長い渋滞にも、その始まり(原因)があるように、「氣」の滞りにもその始まりがあります。
大きな氣の滞りがいきなり生じることはほとんどありません。最初はちょっとしたことで氣が滞り、それが連鎖することで、より大きな滞りに育っていくのです。
そのため、小さな滞りのうちに解消することが重要です。勿論、滞りそのものが生じなければ良いわけですが、様々な人間関係で生きる現代においては現実的ではありません。
一つのことが上手くいかないと、そこに氣が滞ってしまって、心が使えなくなってしまうことがあります。
指導先の学校で、ある学生と稽古していたときのことです。この学生には、仲良く一緒に稽古している友だちがいました。あるとき、その友だちから自分が氣にしていることを言われ、とても嫌な氣持ちになってしまったようでした。
友だちのひと言によって、氣が滞ってしまったのでしょう。
すると、氣が滞った状態で友だちと接しているので、今度は、その友だちの言うこと、やること総てが氣になってしまって、「もう一緒に稽古したくない」と言うのです。
私は直接この話題には触れず、稽古を始めることにしました。稽古そのものが「氣を出す」ことですから、それによって、氣の滞りが解消することが少なくないからです。
稽古の後、この学生はバツが悪そうに私のところにやって来て、ひと言、「氣が滞っていました」と言いました。稽古して氣が出たことで、自分の状態を認識できたのでしょう。
私は「稽古で氣の滞りが解消したのであれば良かったですが、滞りの原因を放置してしまったら、またすぐに戻ってしまいます。どうしたら良いと思いますか」とその学生に尋ねてみました。
学生は考えた末、自分が傷ついた事実を友だちに冷静に伝えました。それを聞いた友だちはとても驚いて、すぐにこの学生に謝りました。その友だちとしても自分の意図とは違って伝わっていたようでした。
氣の滞りが解消してお互いにスッキリしたのか、その後は何事もなかったかのように一緒に稽古するようになりました。この二人にとっては、大事な人生経験となったようです。
人間関係においてちょっとした氣の滞りを持つと、どんどん大きな氣の滞りに育っていきます。そして氣が滞った状態で物事にあたると、他のことまで上手くいかなくなります。これは恐ろしいことです。
だからこそ、氣の滞りは、一瞬たりとも持つべきではありません。特に、家族・友人・仕事のパートナーなど、身近な人だからこそ、ちょっとした氣の滞りが生じた瞬間に対処することが重要なのです。