物事を成就するには心で強く思うことが不可欠です。しかし実際には、強い思いで物事にあたっているはずなのに、ボタンの掛け違いのように物事が上手く運ばなくなることがあります。
「こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ上手くいかないのだろう」そう疑問に思う人は少なくありません。
先日、新幹線の車中でのこと。恐そうな上司と一生懸命な部下が通路を挟んだ隣の席にいました。どうやら頼まれていたものと違う弁当を買ってきたようで、部下はミスを何とか挽回すべく上司の世話をしています。
そんな中、上司がその弁当でYシャツを汚してしまい、「ああもう!こんなもの買ってくるからこうなるんだよ!ちょっと水を持って来てくれ!」と言います。
部下は顔色を変えて「今すぐ行って来ます!」と言って席を立ったのですが、しばらくしても帰って来ませんでした。その間に、汚れはどんどんシャツに染み込んでいってしまうので、上司のイライラは頂点に達していました。
「お待たせしました!」と息を切らせて帰って来た部下の手には、何と車内販売で買ったと思われるペットボトルのミネラルウォーターが…。
部下がどのような判断でミネラルウォーターを買ってきたかは分かりませんが、上司は服にシミを残さないための水が必要だった訳で、出来るだけ早く、水でしめらせた布か紙が欲しかったわけです。
部下が分かるように指示しなかった上司が悪いのが前提として、「またやってしまった!」と部下は氣が動転したため、「何のために」必要な水なのかを理解出来なかったのでしょう。
この後の上司と部下のやり取りはご想像の通りです。
正しい判断が出来ないのは氣の滞りが原因です。一生懸命しているつもりが、実は氣を滞らせているのです。
一つのことに執着すると、全体が見えなくなってしまいます。心が固定されて自由に使えなくなります。そして全体最適ではなく、部分最適に陥りやすくなるのです。
大事なことは「氣を滞らせない」こと。
氣が通っているから、心を自由に使うことが出来るのです。これは「氣」と「心」の関係で最も重要な性質の一つであり、この執着という「氣」の滞りこそ、私たちの最大の課題といって良いのではないかと思います。
問題なのは「氣が滞っているとき」に自覚がないことです。自覚がないものは改善のしようがありません。そのため、「氣が通っている状態」「氣が滞っている状態」、それぞれの実感を持つことが重要です。
「氣が通っている」状態は元々あるべき自然な状態であり、特別な感覚はありません。
それは「健康である」ことに良く似ています。健康なとき特別な感覚はありませんが、様々な実感はあるものです。例えば「食事を美味しく感じる」「身も心も軽い」ときがそうです。
「氣が通っている」ときも実感はあるのです。
一つは「周囲のことを感じられる」状態です。氣が滞っているときは視野が著しく狭くなり、周囲のことが感じられなくなります。
もう一つは「全体でとらえている」状態です。全体最適で物事を捉えているときは氣が通っているときです。部分最適に陥っているときは氣が滞っています。
身体でいえば、全身で動いている(全身を一つに用いている)ときは氣が通っているときです。小手先など、部分で動いているときは氣が滞っています。
心身統一合氣道の稽古を通じて「氣が通っている」「氣が滞っている」という自覚を持つことで、良い状態を再現出来るようになって来ます。多くのアスリートは、これを求めて心身統一合氣道を稽古しています。
世界中の会員の皆様には、氣の滞りを解消することを大きなテーマに、ご一緒に稽古して参りましょう。
本年も宜しくお願い申し上げます。